私は15年間摂食障害でした。

このブログに辿り着いた多くの方が、摂食障害で苦しんでいるだと思います。

「衣食住」という言葉がありますが、食べること、着ること、住まうことは、人が生活していく上で必要な、衣(衣服)、食(食事)、住(居住)のことです。

この生きる上で欠かすことのできない「食」の習慣が狂ってしまった15年。私はこの世の終わりのような日々を過ごしていました。

本日は、私の15年の摂食障害についてお話しようと思います。

摂食障害になる前

摂食障害になる前の私は、明るく元気いっぱいの女の子でした。イメージは、『Dr.スランプ』のアラレちゃん。

ウ○チくん棒を振り回して野原を駆け回ったり、壁によじ登って近所のおばさんに怒られたり、ツツジの蜜を吸って、中にいたダンゴ虫を齧ってしまったり。

とにかく部屋でジッとしていることのできないおてんば娘でした。小学校に入ってからは、6年間ずっと学級委員をやっていました。クラブ活動も委員会も活発に取り組み、THE優等生!みたいな感じです(笑)

先生からの評判はよく、成績もよく、絵を描けば表彰され、硬筆・毛筆は県展で飾られ、作文を書けばコンクールに選ばれる。

中学になると生徒会活動に精を出し、演劇部と美術部を兼部。毎日動き回って、止まると死んでしまうマグロのようでした。

そんな私が5歳の時から中学2年まで続けていたことがクラシックバレエ。同じ教室の仲間は、宝塚入団や海外留学を狙っていましたが、華奢であることが美徳とされたバレエ界。そんな世界で生きていけるほど、私は細くありませんでしたし、当時は無理なダイエットをする気もありませんでした。それでも年に1回の発表会で踊ることは、私にとって快感でした。発表会前の緊張感、リハーサルの雰囲気、、きらびやかな衣装や舞台メイク、その非日常が大好きで、ずっと続けていました。

しかし中学三年生の頃、親の仕事の都合で引っ越すことになり、バレエ教室をやめることに。バレエ歴9年目のことでした。

引越し先で新しいバレエ教室を探したのですが、あまりピンとくる雰囲気の先生や教室に出会えませんでした。

高校受験も控えていたので、バレエ教室ではなく塾に行くことに。踊れなくなることは寂しかったのですが、あまり悲観的にもなりませんでした。

しかし、ここから私の人生が悪い方向へ向かいます。

ダークサイドに堕ちる

THE優等生気質の私は、新しい学校で受け入れられず、クラスに馴染めず、派手な女子グループから嫌がらせを受けました。

宿題のプリントや硬筆・毛筆の作品を破られたり、上履きがなかったり、まさか自分がいじめられる側になるなんて信じられませんでした。

転校前は、いじめ反対!といじめられていた子の相談相手だったのに!

それから、男子にもいじめられるようになり、毎日泣いて、親に反抗ばかり。登校するけど、一言も話さず、じっと時が経つのを耐えました。誰にも見つからないように遠回りして家に帰って、自分の部屋にこもり、あらゆる紙を細かく破いて、みんな死んでしまえばいいと思っていました。

母は、こんな私にどうしていいか分からなかったのだと思います。「ご飯を食べているうちは大丈夫だろう」と料理に力を入れました。

そんなことは頼んでいない。転校なんてしたくなかった。学校に行きたくない。自分なんて死んでしまえばいい。

転校前は、何でも自分の思い通りになったのに!転校したら、一気に全てを失ってしまいました。

そして、ストレスで食べて、食べて、食べまくりました。ただの食べ過ぎで過食症ではないと思います。

どんどん太って、ますます悪質ないじめにあって、女としての自信喪失で気が狂ってしまったのだと思います。

とうとう私は男性恐怖症になってしまいました。

転校して、バレエをやめて、私は明るい性格も失ってしまったのです。

残念な思春期

高校デビューをするつもりでしたが、優等生ぶりっ子をしたら、またイジメられるかもしれない…という不安と恐怖で、本当の自分を表現することができませんでした。

中学の頃のような悪質ないじめをするような男子はいませんでしたが、どうしても男子への不信感と嫌悪感がぬぐいきれない。

女子友達や部活仲間はできましたが、恋バナにはウンザリしていました。私を苦しめた「男」という生き物に媚びを売るなんて信じられない。憧れの先輩って何?文化祭で告白?バレンタインって何?というような屈折した思春期を過ごします。

それでも、彼氏持ちの子が増えると嫉妬で狂いそうになりました。
こんな自分にも嫌悪感を抱きます。

自分のコンプレックスが強調された高校時代。ストレス解消法は食べること。痩せるわけがありません。

当時の写真を全て燃やしたので、お見せすることはできませんが見た目も心も醜く、ネガティブオーラ全開でした。

その後、女子大に進学。
入学式のために購入したスーツは15号でした。
身長158cm 体重87kg ぽっちゃり体型と言うより…

摂食障害との出会い

大学では競技ダンス部に入部します。

華奢でないと無意味なクラシックバレエと違って、外国人のような豊満なボディのほうがラテンダンスにピッタリ!と優しく褒め上手な先輩におだてられたからです。

でも、自分の体重のせいで両足が疲労骨折になってしまいます。

体重を落とさなければ踊れない…
踊りのセンスはいいのに、足が痛くて踊れない…
どうしよう…
葛藤の日々でした。

その時の部活の同期の言葉は決して忘れません。

「痩せたければ、吐けば??」

きっと私のことを想って、何気ない言葉だったと思います。

「あ、そっか。」と納得した自分も悪かったのです。

こうして私の長い過食嘔吐の日々がスタートしました。

食べても吐けばリセットされるというマイルールが固定化されて1年。
私はどんどんスマートになりました。もう疲労骨折も完治して、大好きなダンス漬けの日々。

あからさまに男の態度が変わりました。最低だと思っていた男という生物が、私に優しくしてくれる。嬉しそうに笑顔で話しかけてくる。私が痩せたからなの??

吐くのは苦しくて痛くて辛いけど、オシャレも楽しくて、お化粧も楽しくて、合コンに参加するとモテモテで、悪い気分がしない。「たくさん食べるのに太らないね!」と言われるのが快感でたまらない。

当時の私は、いかにスマートに吐くか?ということを追求していました。長時間トイレに行っても、「便秘だったから〜」と嘘をついていました。この生活を上手くやっている自信もありました。

そして、大学の卒業式で買ったスーツは7号。入学式と比べると半分です!!この時の身長が163cm 体重は47kgになっていました。

華やかなダンス界デビュー

まだ摂食障害であることを重要視していない私は、大学4年生で競技ダンスのプロデビューを果たし、大学卒業後はダンス界へ。

数年後、プロフェッショナル部門ラテンA級(最高ランク)取得、日本代表として英国ブラックプールで開催される世界選手権に出場するまでに成長しました。

しかしながら、煌びやかな表舞台の裏で、スタイル維持への脅迫観念が過食嘔吐を悪化させます。

ダンスのパートナーには摂食障害のことを隠したままだったので、海外遠征中はストレスでイライラするし、喧嘩ばっかり。

体力的にも他の選手より疲れやすく、試合でも結果が残せない、パートナーとのコミュニケーション不足、という状態が続きました。

そして心身ともに疲れ切っていた私は、ある朝、目を覚ますと耳が聞こえなくなっていたのです。ストレス性の突発性難聴でした。

音楽が聞こえない、もう踊れない。飛び出した実家に戻り、そのまま25歳でプロ引退。

もう踊りたくない!でも踊りしかない…と泣く日々。もう踊る必要はないけど、スタイルが崩れるのが怖い。

ダンスをやめて運動する時間が大幅に減ったので、拒食症と過食嘔吐を繰り返す生活になってしまいました。

朝も昼も夜も食べることばかり。
そして吐き出す日々。

難聴は回復しましたが、摂食障害は治らず、実家では親に隠れて食べることにストレスを感じ、また長時間トイレやお風呂場にいると心配されるので、反対を押し切って一人暮らしをすることにしました。

一人暮らしになったことで、摂食障害行動は悪化していきます。

本当のダークサイド時代

誰にも相談できず、生きる意味も自分の価値も分からず、ひとりになると過食嘔吐だけで過ごしてしまうので、夜の街を徘徊。

声をかければ嬉しそうに付いてきて、食事を奢ってもらえて、ホテル代も出してくれる。

男なんて、ちょろいもんだ。

男を落とすたびに、男性恐怖症の原因となった奴へ復讐しているような気分でした。お前らがいじめていた女子は、いい女に成長したぞ!ざまーみろ!って、立ち向かえた気がしました。

なんて残念な思春期を過ごしてしまったのだろう。
もっと青春をエンジョイしたかったのに。

本当は気になっている男子がいた。文化祭で告白とかしてみたかった。学校帰りに待ち合わせとかしてみたかった。一緒に出かけたり、手を繋いだり、友達のことが羨ましかった。

こんなことを考えながら、男漁りの日々。男を落とせた時だけ、女性としての自信が持てました。そのせいで何度か妊娠と中絶をしたこともあります。

アルバイトをしていましたが、毎日毎日、過食用の食材を大量に購入していたため万年貧乏。特定の男性達からお金をもらっていたこともあります。

ダークサイドに堕ちた私は、愚かで恐ろしく、こんな酷い日々を送っていました。

抜け出せない闇。
もがけばもがくほど堕ちていく。

過食やめますか?嘔吐やめますか?人間やめますか?

どん底の中で、人生をやり直したい!
普通になりたい!幸せになりたい!と叫び続けました。

もう食べて吐く生活はやめよう。
男を落としても意味がない。
本当の愛なんて得られない。
とやっと気が付くのです。

こうして私の摂食障害との戦いがはじまりました。

ひたすら情報収集の日々

当時は、両親にも言えず、友達にも言えず、病院にも行けず、日々悶々としておりました。

なぜ誰にも言えなかったのでしょうか。

自分で言うのもなんですが、私はとてもいい子ちゃんだったのです。

そんな自分が食べ物を粗末にしていて恥ずかしい。異常な生活をしている自分を人に言いたくない。現状を話すことが怖い。病院に行くことが怖い。

こんなふうに思っていたので、リアルの世界の人には絶対に言い出せませんでした。そしてネットの世界の傍観者をしていたのです。

当時、私が閲覧していたコミュニティサイトでは、互いに励まし合ったり、近況報告をしたり、摂食障害克服に関する情報交換をしていたり、とても有意義なものに見えました。

しかしながら、
・大量の食べ物を安く購入する方法
・上手にキレイに吐くためのノウハウ
・体重が減っていることの報告
など、今になって考えると、摂食障害を克服したい人間から見れば不必要な情報も飛び交っていたのです。

他の人もやっている、自分ひとりが異常ではない、と思うと、ちょっとだけ安心します。そして自分の行動を正当化していました。

The Carpenters(カーペンターズ)のボーカルであるカレン・カーペンターさんが拒食症で命を落としたこと、ダイアナ妃が過食嘔吐で苦しんでいたことも知りました。

今となっては、摂食障害であった過去を告白している宮沢りえさんやともさかりえさん。当時は、彼女たちの痩せ過ぎた身体を見て、「私もガリガリになりたい…」と過食嘔吐が止められませんでした。

摂食障害を抱えていると、冷静な判断ができないことがあります。

痩せたい。もっと痩せたい。ガリガリになりたい。骨と皮だけになりたい。

なぜ、そんなに痩せたいの?と周囲は理解できないかもしれませんが、どうしても痩せたいのです。この感覚は、摂食障害になった方にしか理解されないと思います。

そして、私が克服できた方法は、おそらく思考を変えたからだと思います。歪んだ情報に惑わされてはいけない。私は「食」に支配されている、縛られている生活を取り返さなければならない。

私が克服できた方法

私はネガティブ思考の人間でした。

食に関すること以外にも、自分に対する評価も低くて、自分を卑下する言葉をたくさん使っていました。

ポジティブになりたいのに、なぜネガティブになってしまうのか?それは自分の内側にネガティブな感情がうごめいているからだと思いました。

太るのが怖い。食べるのが怖い。食べたら太る。
痩せたい。痩せないと生きている意味がない。
ありのままの自分ではいけない。今の自分が大嫌い。

こんな感情しかないので、いざアウトプットしようとした時にネガティブな思考しか出てこないのは、仕方がないことです。

そこでポジティブなインプットを増やそうと思いました。

江本勝先生の『水は答えを知っている』という本を読んで、言葉の大切さを知りました。

水は人の心を映す鏡です。
水はこの世界のあらゆる情報を転写するのです。
水に「ありがとう」という言葉を見せ、
凍らせて結晶を見ると形のととのったきれいな結晶になります。

それに対して「ばかやろう」という言葉を見せた水は、
美しい結晶がつくられません。

このことは何を意味しているのでしょうか。
「ありがとう」という言葉は、あらゆるものに影響を与えて、
よいものに変えてしまうということです。

美しい言葉、感謝の言葉を語りかけると綺麗な結晶ができます。しかしながら汚い言葉を使うと、綺麗な結晶はできないのです。

自然界のパワーって凄いな~と思いました。そして同時に、人間の体の60%が水分で出来ていることを思い出したのです。

ポジティブな言葉を使っていれば、水は綺麗な状態のままですが、もしネガティブワードを連発すれば…考えるだけでも恐ろしくなります。

ポジティブでいっぱいにするために、ひたすら本を読みました。美しい写真集やイラスト集、古き良き映画にも触れました。美術館、博物館へも足を運びました。聖書も読みました。

この頃、インターネットは極力避けていました。広告やニュースも目に入ってしまい、それらの情報は決してポジティブとは限らないからです。

また、人間関係にも気を付けました。八方美人で誰からも嫌われたくないと思っていましたが、自分にとってマイナスな影響があると思われる人とは関わらないようにしました。反対にプラスになると思われる人には、どんどん近づいていきました。社内で違う部署の先輩だったり、学生の頃に参加したことのある歴史の会に顔を出したり、好きな作家さんの講演会やイベントなどに行ったり。尊敬できる人がいると、その人のそばに行って、その人の考え方を知ろうと努力しました。

プライベートでは、酒癖の悪い人との飲み会を断ったり、現状に不満ばかり言う女子会をキャンセルしたり、同窓会や結婚式など、あまり仲が良くなかった人との交流を切ったり、今までの中途半端な人間関係を整理していきました。

こうして数年間は、インプットに命をかけました。

300冊以上の本を読んだところで、言葉の表現が違うだけで、同じような内容が多いことに気が付きました。そして自分なりの考えができるようになってきました。

克服するためのステップ

私が摂食障害を克服できた基本的なステップは…

1:思考を変えて
2:行動を変えて
3:習慣を変える
ことに尽きます。

そして、その道のりはとっても地味でした。

摂食障害中は、全てのことが白黒思考(極端思考)です。なぜか、自分が白黒でしか物事を判断できなくなっていることすら分かっていません。 無意識にグレーゾーンを省いてしまいます。

自分で設定したマイルールより、少しでもオーバーしたら全否定!直ちにリセット願望が発動します。だから、食べたら吐きたくなる仕組みがすっかり形成されてしまっています。

大切なことは、白黒思考で判断しないこと。自分を許すゾーンを用意すること。

次に、行動を見直しました。

本当に食べたいものを我慢していないか?カロリー優先にしていないか?大変な日常をやり過ごすために、過食嘔吐を正当化していないか?悲劇のヒロイン気取りで、摂食障害行動に逃げていないか?

思考を変えて、行動を変えたら、摂食障害習慣を変えることができました。

何年も過食嘔吐していたので、正常な食生活習慣に戻すのは時間がかかって当たり前。 何度も何度も反復練習して、ひたすら訓練の日々。

私は元プロダンサーでしたが、たった1回のステージのために血が滲むほど練習をしていました。他の業界でも同じだと思います。たった1回の成功のために、恐ろしいほど練習を重ねる。訓練をする。

思考を変えて、行動を変えて、習慣を変える。

このステップを踏まないと、体重増加や体型変化に耐えられないのです。

途中、何度も挫折して、何度も諦めて、何度も失望しました。でも、諦めたくなかった。どうしても普通になりたかった。

毎日毎日、摂食障害思考に反論して、昨日とは違う行動をして。ひたすら、愚直に、やり続けたのです。

最悪の日は、1日に6回も過食嘔吐を繰り返していました。365日年中無休で吐いていました。そんな苦痛の日々の中で、1日だけ過食嘔吐が止まった日がでてきたのです。でも次の日は、やっぱり過食嘔吐してしまう。

「やっぱり私はダメなんだ…」

ネガティブ思考が押し寄せてきます。

「ダメじゃない!そんな日もある!」

この押し問答を何年間やったでしょうか。

克服してから3年の時を経て、こうして暴露できる状態になりました。

さいごに

摂食障害という言葉が、だんだんと国内に認知されてきたと思います。

2017年9月、光宗薫さん(元AKB48)が活動休止したきっかけが摂食障害だと言われています。また、女子マラソン元日本代表選手の原裕美子さんが過食嘔吐する食材を万引きをした事件も記憶に新しいです。

他にもレディガガさん、遠野なぎこさん、釈由美子さん、COCCOさん、元フィギアスケート選手の鈴木明子さんなども摂食障害であったことを公表しています。このように有名人・芸能人の人たちが苦しんだ過去を告白することによって、摂食障害が理解されることを願っています。

拒食症で、ガリガリの人だけが摂食障害で苦しんでいるわけではない!吐いても吐かなくても過食症だってあるんだ!と認識してもらいたいです。

残念ながら摂食障害に特効薬はありません。しかしながら不治の病でもありません。

過食嘔吐をしていた頃を思い出すのは、とても苦しいことです。私にとってダークサイド時代は、何もかもが最低最悪の時でした。食事だけでなく、交友関係も、親との関係も、職場での環境も、思い出すだけで反吐が出そうです。

なぜ自分が一番忘れたい過去、消したい時代を振り返ることにしたのか?

それは、今、苦しんでいる人を救えると思ったからです。

自分が苦しんだ15年間、自分の中で何が起こったのか?どのように回復したのか?ということを言語化(見える化)したら、もっと早く改善できたと思います。摂食障害を乗り越えた今だからこそ、見えたことがたくさんあります。そして、随分と遠回りしてしまったなぁ~とも感じます。

もし、私の過去と回復への道のりをセットにしたら、摂食障害を治すスピードをアップすることができると思いました。

このブログを書いている時、どうしても過去と向き合わなければなりません。それは辛く苦しい自分自身との戦いです。

今は信じられないかもしれませんが、必ず治ります。諦めないでください。開けない夜はないのです。

どうか一人でも多くの方に、私の声が届きますように。